最近『ガウェイン卿と緑の騎士』で翻訳の複雑さや歴史的文学の鑑賞を考えていました。
その記事をこちらで読めます。

植えてみよ 
花の育たぬ 
里はなし 
心からこそ 
身は癒しけれ

上記の詩は良寛大愚の句です。
粗訳を試みると:

Try planting something;
there is no place that will foster no flowers.
Only by living truly from the heart,
will the body too be healed. 

最初の二行と最後の二行の関係の意義は運が悪くても精神修養で傷を癒せます(良寛の生きた時代の社会的身分制度に生まれた状況が大抵運命を決ることであったから)。

児玉操さんと柳島彦作さんの優れた『Ryokan The Great Fool』(2009年出版)の翻訳仕方は、Simon Armitage(アーミテージ・サイモン)の『ガウェイン卿と緑の騎士』の翻訳手法と似ていると思います:

Even in the remotest corner,
Flowers will bloom
If we attend them in earnest
Nothing at all though we are.

つまり、各単語の意味を完璧と翻訳することより、むしろ元の文が伝えている感情を重視して翻訳することです。 そのため上記の英語訳は元版と離れていますね。 ここで翻訳の仕事は概念を他言語制度に変換することだけじゃなくうまくとできた時にまるで解釈の本当の創造性を現す活動でもあります。 これを本当に「良寛の詩」だけとして見えるかどうか判りませんけど、文章的洗練と推論できる当初の意図が統一しています。 一見すると結句は元版から離れているけど、第三行は元の意味と合いますから意義も来ます。 生意気なのですけど英語を母国語とする人として、良寛さまの方よりもっと綺麗だと思いますが、両言語を比較できる程理解できるかと言えません。

阿部龍一とPeter Haskelの『The Great Fool: Zen Master Ryokan』には、次のように書かれています:

Go ahead, plant the seed!
There isn't a village
Where flowers won't grow
The very notion of being "lowborn"
Only comes from people's minds

比較的教訓的なアプローチを取った結果、詩の抽象化や隠喩は最後の二行では放棄されました。
トールキンの場合にも同じような反応をしました:名詩の翻訳の中にあるより、こうした解釈を注釈として書く方がいいかもしれません。